昔懐かしい絵で認知症の進行を抑制
アートを通じて社会問題を解決したい
デイサービスセンター牟礼で菅谷所長と打ち合わせをする橋口。同センターを運営するケアサービスから、
ミッケルアートに対する「アドバイスやアイデアをもらえるのが助かる」と橋口は言う。
スプレーで壁画を描くスプレーアートに魅せられた橋口論は、「アートの工業化」を通じて社会問題を解決したいと起業。商店街など中心市街地の活性化に取り組み、現在では介護施設で昔懐かしい絵を使った認知症ケアなどを行っている。(文/吉村 克己 写真/柚木 裕司)
昔懐かしい絵で子ども時代を思い出す
東京都三鷹市にあるデイサービスセンター牟礼では、利用者向けに1枚の絵を使ったユニークな認知症ケアの取り組みを行っている。絵には茅葺屋根の懐かしい古民家と、昭和初期を思わせる服装の人々が楽しそうに会話したり、おにぎりをほおばったりしている風景が描かれている。この日集まった26人の利用者の平均年齢は80歳、中には認知症を患った人もいる。2人1組で絵を見ながら、スタッフの質問に答えていく。
「この絵の季節はいつ頃でしょうか?」とスタッフ。 「服装から見ると秋だわ」「柿の実がなっているから秋ね」 絵には細かく、動物などが描き込まれている。 「この絵の中に動物はいますか?」 「馬」「猫」「豚」「鹿」という回答が返ってくるが、「鹿なんてどこにいるの?」という疑問の声も。
絵の奥に描かれた柿の木の向こう側に鹿の上半身が小さく見える。こうした細かい点に注意を払うことで、脳機能の訓練に役立つ。 「皆さんの出身地の秋の特産物は何ですか?」と、スタッフは次第に利用者の思い出話に誘導していく。絵には利用者が10〜15歳頃の様子が描かれているので、触発されて子ども時代を思い出すのだ。これは回想法と呼ばれる心理療法で、昔話をきっかけに感情・意欲・創造を司る前頭葉を活性化させ、認知症の進行抑制につなげる。
「ミッケルアート(見つけるアート)」という名称で、こうした絵を使った認知症ケアを生み出したのがスプレーアートEXIN(以下、EXIN)の代表を務める橋口論である。 「お年寄りは、どんな場面や服装、道具などを見たときに懐かしいと感じるのだろうと、いろいろな方にお話をうかがい、昔の絵や写真、動画を研究しています。そして、なるべくいろいろな方向に話題が膨らむように、多くのアイテムを描き込むようにしています」
何しろ絵を作っている橋口自身も31歳だし、ミッケルアートを指導する現場の介護スタッフも若い。デイサービスセンター牟礼の菅谷光明所長は「昔のことがわからない若いスタッフもいるので、絵の中のアイテムも確認しながら進めるようにしています」と語る。 デイサービスなど介護施設83カ所に導入。 ミッケルアートでは毎月4種類の絵が、各10枚ずつ介護施設に届く。現場ではそれを見ながら独自に指導法を作り上げている。
デイサービスセンター牟礼を運営する株式会社ケアサービスは都内を中心に52カ所のデイサービスなどを展開しているが、2013年1月からミッケルアートを導入し始め、成果が上がっているという。同社事業推進部の田村薫氏はこう語る。 「家でも話をしなかった男性がしゃべり出し、奥様と会話するようになった、表情が豊かになった、認知症の早期発見ができたなど各事業所で成果が出ています。絵を通じてスタッフがお客様と思い出話をするうちに、いろいろな発見があり、スタッフのお客様への接し方も変わってきました。
先日も絵の中のフランス人形を見たお客様が女学生時代の思い出を語ってくれたことで、その方への支援の気持ちがより深くなりました」 EXINでは、大学と共同で、ミッケルアートによる脳機能活性化の研究を行っている。
その結果、絵画を快いと感じて注視し、何かを想起・記憶することを通して、脳血流量が増加し、語りの語数を増加させる効果があることが明らかとなった。意識的に対象者の好む情報を取り入れた絵画を提供し、効果的に注視を誘導することが脳機能活性につながることが示唆された。
この成果は日本認知症ケア学会2013年全国大会において石崎賞を受賞した。 また、2013年8月からは、全国老人福祉施設協議会から助成金を受け、愛知県の介護施設を中心とした35カ所で約150人を対象に、徘徊や介護拒否などの認知症の症状がどれほど軽減されるかも調査をしている。 こうした実証データもあり、現在では83カ所の介護施設に導入されている。デイサービスが最も多く、次いで有料老人ホームだ
ミッケルアートには高齢者が懐かしいと感じるアイテムが描きこまれている
アートを通じて社会問題を解決したい
EXINには現在、正社員が2人、パートが2人おり、ミッケルアートなど絵の制作を行っている。ベトナムにも制作委託しており、「アートの工業化」を会社の理念としている。もちろん橋口は絵の質の高さを追求しているが、決してそれは一個人の芸術性ではない。絵によって顧客の課題を解決し、それを通じて社会全体がよりよくなることが重要だという。
「学生時代に絵を売り始め、音楽イベントでダンサーや来場者の帽子やTシャツなどに2000作以上オーダーペイントをしました。30分程度の短時間でどれだけ価値を生み出せる絵を描けるかを基本に絵の修練を積んできました。私の考えるアートは、技術で人を喜ばせることです」 橋口は小さい頃から絵を描くことが好きで、人気漫画の『ドラゴンボール』を真似て描いてはクラスの友だちにプレゼントしていた。
しかし、芸術家や漫画家になるつもりはなかった。高校時代に物理が好きだったので、大学は宇宙工学にあこがれ静岡大学工学部に入学した。そして、大学2年生のときに語学の勉強でカナダに短期留学したことが橋口の運命を変えた。
カナダ留学で出合ったスプレーアートに感動
カナダの街で壁面にスプレーで落書きのように描かれたスプレーアートを見た瞬間、身震いするような感動を覚え、「格好いい!自分も描きたい」と思った。帰国後、さっそくスプレー缶とベニヤ板を買ってきて、大学構内にベニヤ板を並べて絵を描き始めた。だが、いくら絵心があっても簡単にはうまくいかない。
それから橋口は、絵の参考書を読みあさったり、骨格や筋肉の付き方、顔のしわの描き方などを研究したりして、毎日何十枚もスケッチブックにデッサンを描き続けた。 そのうち、少しずつうまく描けるようになり、地元浜松の商店街を訪ねて壁やシャッターに絵を描かせてほしいと営業してまわった。最初は門前払いだったが、徐々に顧客が広がり、アパートの壁やオートレース場、工事現場の仮囲いなどにスプレーアートを描かせてもらった。 大学卒業にあたり、起業するかどうか迷ったが、まだ自信がなく、とりあえず大学院に進む。
2年後、ようやく踏ん切りのついた橋口は大学教授である父のアドバイスもあり、静岡大学のベンチャー支援室に相談に行った。すると、ベンチャー支援室はアートを通じて街づくりや商店街の活性化をするという橋口の理念に共感して支援を約束、橋口は大学発のベンチャーとして2007年にEXINを一人で立ち上げた。
起業後、横浜のある新築住宅工事で、ガレージにハワイの波を描いてほしいという依頼があり、橋口は実際にハワイまで行って、何枚もの波の絵をスケッチしてからガレージに描いた。その顧客は黙って旅費を上乗せして料金を払ってくれた。
会話の少ない高齢者のために思い出を絵に
設立後3年間は資金もない中、「東京で勝負がしたい」と自動車の中で寝泊まりしながら仕事に邁進した。そのうち仕事先が広がり、浅草の雷おこしの店舗壁面に龍の絵を描いたり、人形町の商店街シャッターに七福神の絵をデザインしたりするなど評判も高まってきた。
その姿をテレビ局が取材し、2009年に全国放映されたところ、それを見た愛知県にある有料老人ホームから壁画制作の要請が来た。
橋口はホームに何度か足を運ぶ中で、入所している一部の高齢者たちが互いに会話することなく、一人でテレビをみて過ごしていることに気がついた。話しかけるうちにだんだん親しくなり、あるとき「何か絵でも描きましょうか」と聞いてみた。すると、「五条川がいいなあ。あの小さな川で昔よく遊んだ思い出があるよ」と言われた。完成した絵を見せると、「五条川だ。春は桜がきれいだよね」と他の高齢者も寄ってきて、会話が盛り上がった。
それから、他の高齢者の思い出話を聞き、次々に模造紙に描いては廊下に貼りだした。高齢者同士の共通の思い出を絵にすることで会話がはずみ、ホームの事務局長も「あの人がこんなに話すとは」と驚くほどの効果をもたらした。これがミッケルアートの始まりだ。
高齢者の思い出話を通じて共感の輪を広げる
橋口は絵の持つ力を新たに知った。それから橋口は病院や介護施設を訪ね、850人あまりの高齢者から思い出話を聞いて絵を描いた。その絵を飾ってアンケートをとる作業を繰り返し、どの程度の太さの線なら視力が衰えた人でも見やすいか、思い出話につながるような絵が作れるか徹夜で悩み、模索し、今日のミッケルアートを確立した。
超高齢化社会を迎え、ミッケルアートのさらなる普及が社会的に意味があると考えている。「私たちはお年寄りが思い出を語りやすい社会にしたいと考えています。
認知症になれば周りにたくさんの人がいても、記憶が失われていくことで話す機会がどんどん少なくなる。ある法事の席でひとりのお年寄りが『ああ、またひとり亡くなってしまった。話し相手がいなくなったねぇ』と言った言葉がまだ耳に残っています。お年寄り同士や、お年寄りと介護職員、あるいは子どもや孫ともっと会話できる場を作りたい。ミッケルアートをそのきっかけにしたいと考えています」
橋口の祖父は元軍医で『子や孫に残したい戦争のこと』という文書を家族に残して亡くなった。改めてその文書を読むと、「昔のことを知らない世代にそれを伝えて、いまがどれほど豊かな時代か知ってほしい」と書いてあった。
「私にお話をしてくださったお年寄りも同じでした。『自分の記憶が日に日に思い出せなくなっている。今しか話せない気がする。昔を知らない世代に伝えておきたい』と口をそろえて言う。
「認知症の有無を問わずコミュニケーションの場づくりが重要です」 橋口は「共感の輪が基本です」と語った。
親と子、祖父母と孫の間に絵を通して共感の輪を広げる。ミッケルアートから漂う温かさは、そんな思いに根ざしているようだ。
デイサービスセンター牟礼では原則週に3回、ミッケルアートを実施している。
孤立しがちな男性利用者の友達作りにも役立っているという
( WISDOM様より引用)
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